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第10回 美ら弾ち(ちゅらびち)

津波恒徳、昭和二年、読谷村出身。八十歳。沖縄音楽界の大ベテランである。最近はあまり表だった活動はそうないものの並の歌手とは息の長さが違う。その艶っぽい歌声は昨年、大阪での琉球フェスティバルにてトリを務めたことは記憶に新しい。

十九日(土)我が島唄カフェいーやーぐゎーにてのライブでは、その三線の美ら弾ちを堪能させてくれた。父親が古典音楽家(野村流)であったため、物心つ いたときから触れていたという三線は身体の一部であり、そこから発せられる歌声は氏の生涯そのもといってもよい。戦前、十三歳の頃、先輩たちに誘われて毛 遊びで三線を弾かされた。実に楽しかったという。十五歳で紡績工場へ出稼ぎ。とにかくきつかった記憶。

沖縄に帰ってきたのは戦後の昭和二十三年。ふるさと読谷村にて散髪屋を営みながら古典音楽研究や地域の古い民謡の発掘に情熱を注ぐ。昭和三十四年、石原 節子とのデュエット曲「ひじ小節」でレコードデビュー。故知名定繁の指導を受け、自らも故松田永忠、金城実、松田弘一、古謝美佐子らを指導。加えて、新曲 も精力的に発表してきた。代表曲には「浅地紺地」「ちぶみ」「二人が仲」などがある。津波恒徳氏の業績を上げるときりがないのでこれくらいにして…。

ライブである。孫たちも見守るなか、うたむち(イントロ)を忘れたり、歌詞を間違えたりするのは愛嬌で、とにかく艶っぽいのだ。何が。三線を奏でるその 指が。美ら弾ちとはよくいったもので、その指にかかると、どんなに速いカチャーシーの曲でもゆるりゆるりと弾いているように見える。氏のやさしい人柄が三 線も観客もつつんでいきました。

2007年5月22日 琉球新報夕刊「南風」掲載より

第9回 しゅーまんぼーしゅー

油断も隙もありゃしない。ついこの間年が明けたかと思ったらもうゴールデンウイークも終わってしまっている。

この季節、ヤマトでは「風薫る五月」というが、梅雨(しゅーまんぼーしゅー)真っ只中の沖縄は黴香る五月と言った方がよさそうだ。実際、我が家の本棚の本は波うち、レコード棚から放たれる黴の種子は家中至るところで増殖を試みる。全く油断も隙もありゃしない。

五月といえば私にとって忘れられない人がいる。一九九一年五月十九日に亡くなったルポライターの竹中労その人である。マルチクリエイターして活躍した、 型破りなジャーナリストとして知られる竹中労の仕事の中で、沖縄音楽に関するルポルタージュは沖縄にも本土にも一つのエポックをもたらしたことは間違いな い。七〇年代前半、彼ほど沖縄音楽の地域性と独自性を強調した人はいなかったし、彼ほどその取り巻く状況に警鐘を鳴らした人はいなかった。

七三年から七五年までの短い間に故嘉手苅林昌や登川誠仁らを引き連れて何度となく歌会を主催。三度に渡る琉球フェスティバルの開催。その間に三十六枚に も及ぶメジャーからのレコード製作。あの時代に十全ともいえる質と量で沖縄民謡を世に問えたということは、まさしく奇跡的な出来事であったといえよう。そ れがちゃんと認識されなかったにしろ、現在の沖縄音楽の興隆の基礎をつくる大きな役割を果たしたことは事実だ。

九一年、病魔(肝臓癌)と闘いながらの沖縄取材は凄まじかった。その中途で倒れ、そのまま東京の病院へ搬送された。その生々しいルポは「エスクァイア日本版」(九一年八月号)に詳しい。沖縄音楽を支えた先人の情熱とエネルギーには黴を生えさせないようにしたいものだ。

2007年5月4日 琉球新報夕刊「南風」掲載より