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第11回 新風(みいかじ)

新風(みーかじ)が吹いている。日本の音楽シーンに於ける沖縄音楽の躍進は、いわゆるかつてのブームの時のような勢いは落ち着いた感はあるものの、今や沖縄発の音楽ジャンルとしての裾野は確実に広がりを見せているといってもよさそうだ。

沖縄内にあってはどうか。若いアーティスト達がどんどん力をつけて台頭しつつある。ポップスや島唄に限らず伝統芸能や古典音楽の分野においてもである。 これから活躍するであろう、若いアーティストたちは、やはりよほど良い音楽環境で育ったDNAを備わったサラブレットが多いというのも事実である。ともあ れ、一国内の一地域の音楽が沈むこともなく、再生を繰り返し、言霊を受け継いでいけるということは素晴らしいことに違いない。

そんな若いウタサー(歌手)たちと話していて、沖縄音楽文化を担っているという気構えと、それを途絶えさせてはいけないという危機意識を強く持っている 人たちが多いことに気付く。彼らと同じ年頃、民謡を聞いているなどとは気恥ずかしくて言えなかった筆者には頼もしすぎるほど感心させられてしまう。

先月、若手アーティストによるコンピュレーションCD「新風」がBCYンナルフォンからリリースされた。若手男女九人が参加するそのアルバムは、オリジ ナルな新曲をそれぞれが堂々と歌いこんでいる。タイトルから受ける印象よりも、そこにあるのは古き良き沖縄の伝統音楽を継承していこうとする強い意志のあ らわれを感ぜずにはいられない。その高邁な姿勢に聴いているこちらの方が少し心配になるくらいだ。ともあれ、新風は確実に吹いている。

2007年6月5日 琉球新報夕刊「南風」掲載より

第10回 美ら弾ち(ちゅらびち)

津波恒徳、昭和二年、読谷村出身。八十歳。沖縄音楽界の大ベテランである。最近はあまり表だった活動はそうないものの並の歌手とは息の長さが違う。その艶っぽい歌声は昨年、大阪での琉球フェスティバルにてトリを務めたことは記憶に新しい。

十九日(土)我が島唄カフェいーやーぐゎーにてのライブでは、その三線の美ら弾ちを堪能させてくれた。父親が古典音楽家(野村流)であったため、物心つ いたときから触れていたという三線は身体の一部であり、そこから発せられる歌声は氏の生涯そのもといってもよい。戦前、十三歳の頃、先輩たちに誘われて毛 遊びで三線を弾かされた。実に楽しかったという。十五歳で紡績工場へ出稼ぎ。とにかくきつかった記憶。

沖縄に帰ってきたのは戦後の昭和二十三年。ふるさと読谷村にて散髪屋を営みながら古典音楽研究や地域の古い民謡の発掘に情熱を注ぐ。昭和三十四年、石原 節子とのデュエット曲「ひじ小節」でレコードデビュー。故知名定繁の指導を受け、自らも故松田永忠、金城実、松田弘一、古謝美佐子らを指導。加えて、新曲 も精力的に発表してきた。代表曲には「浅地紺地」「ちぶみ」「二人が仲」などがある。津波恒徳氏の業績を上げるときりがないのでこれくらいにして…。

ライブである。孫たちも見守るなか、うたむち(イントロ)を忘れたり、歌詞を間違えたりするのは愛嬌で、とにかく艶っぽいのだ。何が。三線を奏でるその 指が。美ら弾ちとはよくいったもので、その指にかかると、どんなに速いカチャーシーの曲でもゆるりゆるりと弾いているように見える。氏のやさしい人柄が三 線も観客もつつんでいきました。

2007年5月22日 琉球新報夕刊「南風」掲載より