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沖縄藝能新聞ばん(月刊) '04年5月15日〜'05年12月1日 |
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「スピリチュアル・ユニティ」 を斬る
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今回は発売当時から気になっていたCDのゴーグチ(不平)を一発。すなわち二〇〇一年にリリースされた「スピリチュアル・ユニティ」(リスペクトレコードRES-45)登川誠仁のアルバムだ。時の人・セイグヮー(登川誠仁)やレーベルに文句を言うつもりはない。そのプロデューサーに一言ゴーグチをかませたい。
タイトルの「スピリチュアル・ユニティ」。あれは何ぞや?ジャズ・サックス奏者・アルバート・アイラーが1964年に発表したアルバム名じゃないですか。登川誠仁と言えば、沖縄島うた=民謡の顔であり、最高のブランドである。そのCDアルバムにどこぞの国のアーティストのレコードタイトルをそっくりそのままつけるなど以ての外、沽券に関わる問題でありますぞ。
プロデューサー・藤田正は言う。「登川さんがNYやメンフィスに生まれていたら、間違いなく、ロックンローラーになっていたでしょう」(『箆柄暦』、2004年3月号)
彼の音楽の認識が実はこの程度でしかないのかと思うと、なるほど頷ける。沖縄に育ったセイグヮーは十分“ロックンローラー”だと我々は思っているし、島うたがロックンロールよりも劣るなどと考えてみたこともない。実際、私は物心ついた頃から、嘉手苅林昌や登川誠仁のうたを垣間見ることができた。沖縄島うたはいうなれば格闘技であった。登川誠仁は庶民=聴衆との格闘を制してきたのである。セイグヮーのカチャーシーは“ロックンロール”以上なのだ、そう思っているウチナーンチュは私だけではない。
そして藤田は言う。
「自分(登川)はどんな人とも渡り合えるんだという強い自信があるのでしょうね」 (同前掲)
そのどんな人というのがソウルフラワー・ユニオンだ。ステージでどういう企画を持ってきてもいいと思うが、質の高い登川音楽のCDを企てるのであれば、たとえ登川が望んだとしても彼等の役不足は否めなかったのではないか。登川を引き立てるどころか自分達を前面に押し出そうとして、結果、登川の三線の美ら弾きが分散され妙に貧乏くさい音になっている。「ヒヤミカチ節」などはベース音一つにそのリズムは殺され、躍動感を全く失っている。「美ら弾き」(ビクターVICG-5164)や「登川誠仁・独演会」(ンナルフォン・38NCD-27-28)のそれと聴き比べてみるとよい。酔虎・登川誠仁の面目たる牙は殺ぎ落とされ、映画の延長の“癒し”というやつ。藤田の狙いは実はそこら辺にあったのではないか。次のアルバム「スタンド」(RES-66)では見事なまでに好好爺を演じさせられているではないか。
「スピリチュアル・ユニティ」は民謡ではなく、ポップ・ミュージックというが、算盤勘定だけの志の低いアルバムだ。このCDで登川誠仁は藤田のいう“ワールドクラス”の歌者から抜け落ちたというのが私を含め回りの感想。これは沖縄の島うたファンからするととても残念な事だ。藤田正という音楽プロデューサーはひょっとして沖縄音楽が嫌いではなかろうか。(文中敬称略)
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2004年7月1日 沖縄藝能新聞『ばん』創刊号より |
ウェブ掲載版(初出)はこちら(*) |
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