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沖縄藝能新聞ばん(月刊) '04年5月15日〜'05年12月1日 |
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君知るや 小浜守栄
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小浜守栄という歌者(ウタサー=歌手)をご存知でしょうか。今回、沖縄芸能人プロフィールでもとり上げたのですが、ぜひ覚えていてもらいたいのです。戦後沖縄民謡黄金期を築いた最大の貢献者の一人です。彼の情熱と行動がなかれば今日の島うた=民謡の興隆はなかったと言っても過言ではないでしょう。
小浜守栄は研究者としてはリーダー的存在でありましたが、表現者としては大いなるサポーターでありました。従って彼の独唱というのは嘉手苅林昌や喜納昌永など、、他の活躍した島うたの巨人等に比べてとっても少ない。数多いレコーディングもほとんどが合唱であり、本人は伴奏も歌もサポート役にまわっているのです。
私は彼のひょうきんな「アキトーナー」と「月と涙」の絶唱が大好きです。
うぬちゃ年取たみヨ
元びれぬ小ぬ
ウサ小やアキトーナー
(ありゃりゃ、昔の恋人のウサ小はこんなに年とっちゃって…)
その歌声を今ではあまり聴くことができないのはなんだか残念です。
十九歳の時、海軍省の募集に応じ、農業人夫として南洋諸島に赴きます。太平洋戦争が勃発して、現地にて召集されて中国大陸に渡ったのが二十二歳の時。行軍に継ぐ行軍。筆舌に尽くせない苦難が待っていました。
「生きていたのが珍しくもあれば、死んでいった戦友が羨ましくもあった。うぬあたいあわりやったさー」
マレーシアにてイギリス軍の捕虜になり、半年間の強制労働の後、命からがら復員。神奈川県逗子の沖縄県人用の沼間寮にて嘉手苅林昌と再会するも、玉砕した故郷が気がかりで一足先に沖縄を目指します。
しかし、「沖縄は何も無かった」。移民、軍隊、捕虜、復員、あれ程哀れして帰ってきたのに…。
「やがて野村流古典音楽照屋林山師範の門に入った氏は、敗戦の虚無感の中に音楽への情熱を見出し、昴まる心は庶民のうた民謡への開眼奔流のように突っ走り、歌って歌いまくった」(一九六二年、小浜守栄リサイタルのパンフレットより)
小浜守栄は嘉手苅林昌を連れ添って沖縄本島全土を歌い回ります。性格も生き方も全く違う二人ではありましたが沖縄音楽への情熱と使命感は一致していました。異民族支配の荒々しい時代に、見失ってはならない沖縄の心を三味線の音にたくしたのです。
いつしか二人の声は区別がつかないくらい似通っていました。やがて庶民の生活に民謡が根付くと小浜守栄は一線から退きました。今こそ小浜守栄の情熱を忘れないようにしたいものです。
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2004年9月1日 沖縄藝能新聞『ばん』第3号より |
ウェブ掲載版(初出)はこちら(*) |
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