月別アーカイブ: 2011年5月

第9回 しゅーまんぼーしゅー

油断も隙もありゃしない。ついこの間年が明けたかと思ったらもうゴールデンウイークも終わってしまっている。

この季節、ヤマトでは「風薫る五月」というが、梅雨(しゅーまんぼーしゅー)真っ只中の沖縄は黴香る五月と言った方がよさそうだ。実際、我が家の本棚の本は波うち、レコード棚から放たれる黴の種子は家中至るところで増殖を試みる。全く油断も隙もありゃしない。

五月といえば私にとって忘れられない人がいる。一九九一年五月十九日に亡くなったルポライターの竹中労その人である。マルチクリエイターして活躍した、 型破りなジャーナリストとして知られる竹中労の仕事の中で、沖縄音楽に関するルポルタージュは沖縄にも本土にも一つのエポックをもたらしたことは間違いな い。七〇年代前半、彼ほど沖縄音楽の地域性と独自性を強調した人はいなかったし、彼ほどその取り巻く状況に警鐘を鳴らした人はいなかった。

七三年から七五年までの短い間に故嘉手苅林昌や登川誠仁らを引き連れて何度となく歌会を主催。三度に渡る琉球フェスティバルの開催。その間に三十六枚に も及ぶメジャーからのレコード製作。あの時代に十全ともいえる質と量で沖縄民謡を世に問えたということは、まさしく奇跡的な出来事であったといえよう。そ れがちゃんと認識されなかったにしろ、現在の沖縄音楽の興隆の基礎をつくる大きな役割を果たしたことは事実だ。

九一年、病魔(肝臓癌)と闘いながらの沖縄取材は凄まじかった。その中途で倒れ、そのまま東京の病院へ搬送された。その生々しいルポは「エスクァイア日本版」(九一年八月号)に詳しい。沖縄音楽を支えた先人の情熱とエネルギーには黴を生えさせないようにしたいものだ。

2007年5月4日 琉球新報夕刊「南風」掲載より

第8回 伝説のナークニー

本紙四月十二日の夕刊にコンチュウナークニーで知られる高良輝忠さんの功績を偲ぶ記事を拝見した。去る三月三十一日に百二歳の天寿を全うしたとのこと。

昭和初期に出稼ぎで大阪へ行き、チコンキ・フクバルこと普久原朝喜氏にすすめられてナークニーなどを録音。その荒々しく何処までも響く歌声と奔放で繊細 な三線の音色は聴く人に衝撃を与え、その音源は後の手本となっていった。沖縄に帰ってからは新録も舞台公演などもなかったというところに存命中でありなが らも長きに渡って伝説のナークニー歌者たる所以がある。怠け者が民謡をやるといわれていた当時、本名の高良を名乗ると回りに知られてまずいので宮城とした が、もちろんその歌声はすぐに知れることとなり、沖縄に戻ってきても親に会わす顔がないということで、しばらくは那覇に住たという話を聞いたことがある が、それも伝説にまつわる挿話のひとつであろうか。

大正時代に録音された富原盛勇氏の奏でる富原宮古根(トゥンバルナークニー)となると伝説というより幻のナークニーといえよう。現代沖縄民謡の元祖的存 在の普久原朝喜氏が富原氏のレコードを聞いて歌をやる気になったというから元祖の元祖というところか。残された音源は一曲だけというが、それさえも耳にし たことがない。

かつて「コンチュウナークニー」というのを聴きたくてレコードを手に入れた。もう片面の曲名が「ハンク原」とあった。三味・唄、普久原朝喜・鉄子とあ る。ハンク原なる曲はどのような歌であろうかと針を落としてみると、「はんた原」~ナークニーが流れた。素っ頓狂で遊び心があり、サウンド自体は古くさい が、耳に残る音は実に現代的。その時いろんな人のナークニーが聴きたくなった。

2007年4月24日 琉球新報夕刊「南風」掲載より