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Vol.15 多読乱読の読書旅「本にまつわるエトセトラ」

最近、新渡戸稲造著「修養」(タチバナ文庫)を読んだ。身と心の健全な発達を図るのが修養の目的とするが、どうも自分がいかに不健全な発達を遂げたことだろう と、反省するも今さらどうすることも出来ず、ただただ第十章の「逆境にある時の心得」にそうか、とうなずくだけである。若者にぜひ勧めたい一冊である。  ここ最近一年間は店を中断したこともあって、結構多読した。片っ端からとまでは行かないが、かつて読んだ本、最近の著書、沖縄関係と自らのアンテナを頼りにある 時は三日三晩家の中にこもり読んだりもした。先の「修養」に照らして言えば、何らテーマ性も無く、自分の定説が無くなり、頭脳が粗雑に流れて、緻密(ちみつ)を欠 くものであったが、久しぶりに心の裕福を感じる楽しいひと時を味わった。  鴨長明の「方丈記」を声に出して読み、感じ入り、本棚から「正法眼臓随聞記」を取り出すも挫折。という具合の読書旅。  参考にもならないと思うがここに気になった著書を掲げよう。沢木耕太郎「凍」(新潮社)藤堂明保「漢字の話上下」(朝日選書)池上永一「シャングリ・ラ」(角川 書店)中川一徳「メディアの支配者」(講談社)佐藤優「国家の罠」佐藤賢一「カポネ」安岡正篤「易と人生哲学」船戸与一「河畔に標なく」エトセトラ。  「凍」は全く客観的に捉えた沢木ノンフィクションの最高傑作(勝手に自分で思い込んでいる)。池上永一は沖縄にもこんな書き手がいるのかと読むたびに嬉しくな る。天皇制=日本を沖縄(八重山)の視点から見つめつつのドタバタ劇=「シャングリ・ラ」には感服。今さらカポネでもないと思いつつ読んだ「カポネ」は躍動感溢れ る悪漢小説のまさに金字塔(そういうふれこみ)といえる。船戸与一は最も好きな作家の一人で新刊が出ると必ず初版で購入している。  とりわけ冒険小説が好きというわけでもないが、全体に流れるニヒリズムと特にアジアを見つめる視点にはいつも感心させられる。かつての船戸の傑作「蝦夷地別件」 や「猛き箱舟」も読み返してはウツツをぬかしていたのはつい半年前。まだそれは抜けきっていない。

「沖縄タイムス 2006年9月9日掲載」

Vol.14「平成のワタブーショー」を問う

ウチナーポップ音楽の元祖・照屋林助さんが亡くなった。林助音楽のエキスは戦後のコザの具現であった。その存在自体も、我々ほんの少しでも一緒に呼吸したことのあるウチナーンチュには生きる歴史であり、尊敬すべき歴史の改革者であったといっても過言ではない。
しかし、私はその偉大さを他人に説明することがこれまでできなかった。彼はアーティストであるからにして、作品=音源(CD)を聴いてもらうのが一番である。
代表作は何ですか。代表CDはどれですか。と訊かれた時、ハイ、これです。というものがない。少なくとも私はそう考える。だからといって、ライブの達人・照屋林助の評価が下がるものでは決してない、と説明しても氏を知らない人が聴いたらどうなんだろうと悲観的になってしまう。
そこで私はレコードの音源を聞かせて、例えば「沙汰んならん呉屋主」とか「年中口説」「ハンドー小」とかを聴かせたり。マルテルレコードでの氏のユニークな企画(知名定男氏を従えての)などを説明して林助芸の凄さを解らせようとしたもの。それ程に既存のCDの評価は私には低いとしか言いようがない。
 これから追悼盤CDとか、追悼ライブとか企画されることと思うが、プロデューサーFあたりがしゃしゃり出てくることを私は相当危惧する。彼のプロデュースした「平成のワタブーショー」(1996)などはちょっと酷かもしれないが、ある年代以上のウチナーンチュにすれば、評価点は30点にも満たないのではないか。
私とT氏はその録音現場にいて、林助芸のドキュメントとしてはあまりのテンションの低さに落胆して、新たな企画を画策したのだが、ものの見事につぶされてしまった。
結局、照屋林助という人はCDを聴いてもよくわからないが、実際行逢ってライブや話を聞くと「スゴイ」と返ってくる。残念なことだ。
 冗長で安易でジンヌサンミン(銭の計算)。今改めて聴いても当事と同じ感想である。あまり書くと、天国の林助さんに叱られそうなので、このへんでよします。今こそ氏の残された作品(映像を含めて)を世に問い、代表作というものを発表されん事を願うばかりです。