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第8回 伝説のナークニー

本紙四月十二日の夕刊にコンチュウナークニーで知られる高良輝忠さんの功績を偲ぶ記事を拝見した。去る三月三十一日に百二歳の天寿を全うしたとのこと。

昭和初期に出稼ぎで大阪へ行き、チコンキ・フクバルこと普久原朝喜氏にすすめられてナークニーなどを録音。その荒々しく何処までも響く歌声と奔放で繊細 な三線の音色は聴く人に衝撃を与え、その音源は後の手本となっていった。沖縄に帰ってからは新録も舞台公演などもなかったというところに存命中でありなが らも長きに渡って伝説のナークニー歌者たる所以がある。怠け者が民謡をやるといわれていた当時、本名の高良を名乗ると回りに知られてまずいので宮城とした が、もちろんその歌声はすぐに知れることとなり、沖縄に戻ってきても親に会わす顔がないということで、しばらくは那覇に住たという話を聞いたことがある が、それも伝説にまつわる挿話のひとつであろうか。

大正時代に録音された富原盛勇氏の奏でる富原宮古根(トゥンバルナークニー)となると伝説というより幻のナークニーといえよう。現代沖縄民謡の元祖的存 在の普久原朝喜氏が富原氏のレコードを聞いて歌をやる気になったというから元祖の元祖というところか。残された音源は一曲だけというが、それさえも耳にし たことがない。

かつて「コンチュウナークニー」というのを聴きたくてレコードを手に入れた。もう片面の曲名が「ハンク原」とあった。三味・唄、普久原朝喜・鉄子とあ る。ハンク原なる曲はどのような歌であろうかと針を落としてみると、「はんた原」~ナークニーが流れた。素っ頓狂で遊び心があり、サウンド自体は古くさい が、耳に残る音は実に現代的。その時いろんな人のナークニーが聴きたくなった。

2007年4月24日 琉球新報夕刊「南風」掲載より

第7回 壷宮通り

島唄カフェ「いーやーぐゎー」が壺宮通りに越してきて、おかげさまで、一年が経ちました。その場所の問い合わせが毎日のようにある。 「壺宮通り」です。と、答えても、その通り名自体がまだ出来たてで、まだいわゆる市民権を得ていないといってよい。ひめゆり通りの大浜第二病院を真和志支 所向けに…。そう、あのモスバーガーがある一キロ程の通り、と説明すると若い人には通用する。タクシーなどには旧郵便局通りだと分かってもらえる。道の片 側が壺屋に属し、もう片方が寄宮となっているところからの命名だ。

壺屋という地名は古く、琉球の正史「球陽」巻之七、尚貞王十四年(一六八二)の項に「昔壺屋(ヤキガマ)は美里郡の知花、首里の宝口、那覇湧田の三箇所あり『以テ一所トナスナリ』と、牧志村の南に移した」という記述がある。それから琉球陶器の一大生産地となっていった。

寄宮は「よりみや」なのか「よせみや」なのか、いつも疑問に思っていた。私が小学校の頃、那覇に住んでいた時は「よせみや」といっていた記憶がある。最 近は「よりみや」という人が多い。そこで、色々訊いてみると、「寄せ集めではなく、寄り集まった所なので『よりみや』だ」という答えを得た。「沖縄大百科 事典」を紐解いてみると、「よせみや」はなく、「よりみや」の項目に「一九四六年、字与儀宮城原(よぎみやぎばる)、字国場寄増原(こくばよせましば る)、洗田原(あらいたばる)の三小字で成立。寄増原の〈寄〉と宮城原の〈宮〉をとり寄宮とした」と、ある。

どうも「よりみや」の方が正しいようだが、「よせみや」と読んでもよさそうだ。しかし、こうして見てみるとこの通りも何だか由緒ある歴史的な場所に思えてくるから不思議だ。

「壺宮通り」は明日で満二歳になります。

2007年4月10日 琉球新報夕刊「南風」掲載より