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第7回 壷宮通り

島唄カフェ「いーやーぐゎー」が壺宮通りに越してきて、おかげさまで、一年が経ちました。その場所の問い合わせが毎日のようにある。 「壺宮通り」です。と、答えても、その通り名自体がまだ出来たてで、まだいわゆる市民権を得ていないといってよい。ひめゆり通りの大浜第二病院を真和志支 所向けに…。そう、あのモスバーガーがある一キロ程の通り、と説明すると若い人には通用する。タクシーなどには旧郵便局通りだと分かってもらえる。道の片 側が壺屋に属し、もう片方が寄宮となっているところからの命名だ。

壺屋という地名は古く、琉球の正史「球陽」巻之七、尚貞王十四年(一六八二)の項に「昔壺屋(ヤキガマ)は美里郡の知花、首里の宝口、那覇湧田の三箇所あり『以テ一所トナスナリ』と、牧志村の南に移した」という記述がある。それから琉球陶器の一大生産地となっていった。

寄宮は「よりみや」なのか「よせみや」なのか、いつも疑問に思っていた。私が小学校の頃、那覇に住んでいた時は「よせみや」といっていた記憶がある。最 近は「よりみや」という人が多い。そこで、色々訊いてみると、「寄せ集めではなく、寄り集まった所なので『よりみや』だ」という答えを得た。「沖縄大百科 事典」を紐解いてみると、「よせみや」はなく、「よりみや」の項目に「一九四六年、字与儀宮城原(よぎみやぎばる)、字国場寄増原(こくばよせましば る)、洗田原(あらいたばる)の三小字で成立。寄増原の〈寄〉と宮城原の〈宮〉をとり寄宮とした」と、ある。

どうも「よりみや」の方が正しいようだが、「よせみや」と読んでもよさそうだ。しかし、こうして見てみるとこの通りも何だか由緒ある歴史的な場所に思えてくるから不思議だ。

「壺宮通り」は明日で満二歳になります。

2007年4月10日 琉球新報夕刊「南風」掲載より

第6回 御冠船夜話

久しぶりに「御冠船夜話」(若夏社1983)を読んだ。著者は戦前戦後を通じて沖縄芸能の発展継承に尽力した、故金武良章。在りし日の 首里の生活、風俗、年中行事などを語りまた歌聖といわれた父・金武良仁師を通して接してきた琉球王朝最後の「寅の御冠船」での演者、地謡など、琉球の芸道 の名人たちの芸能に対する姿勢を時に淡々と時に熱っぽく物語る。

まるで初めて目を通すかのような感動に次から次へと襲われる。改めて沖縄の芸能の奥深さを感じさせられた。琉球芸能を志すすべての人に読んでもらいたい名著だ。

昭和九年、金武良仁が初めてのレコード吹き込みを終え、大阪放送局から「かぎやで風」を含む四曲が放送されるとの連絡を受け、当時の首里のにぎわう当蔵 の「ふで屋」という文房具屋にて近所の知り合いなどが何となしに集いラジオに釘付けとなり、放送に聴き入るくだりなどは、古き良き沖縄のほのぼのとした情 景が感じられて、ついほくそ笑んでしまう。

さて、この度金武良仁が昭和九年から十一年にかけての録音、先ほどの「かぎやで風」や「仲村渠節」など含む、のSP盤レコードを音源に、これまた蓄音機 の名器中の名器でイギリス製のEMGエキスパート・オーバーホーン・マークⅩ(レコードも蓄音機も山城政幸所有)で再生して録音したCD「名盤復刻・名人 の呼吸が聴こえる 金武良仁全曲集」を作製しました。蓄音機の鉄針から伝わる振動音は七十年以上も前の三線の絃の音色を歴史の中の空気感とともに神経質に 再生する。

目の前にて名人・金武良仁が演奏しているような臨場感は、まさに基本であり、目的ともなろう。三月末、キャンパスレコードより発売予定です。

2007年3月27日 琉球新報夕刊「南風」掲載より