日別アーカイブ: 2011/05/23

Vol.3 追悼・小浜守栄

あっと言う間に2003年になりまして、もう2月も終わろうというありさま。毎日忙しいのはいいが、これではあっという間に爺(タンメ) になりそうだ(ただでさえふけているのに)。このホームページだってアップの仕方がわからなくて、つい手付かずにここまで来てしまった。何とかしましょ う。
と、いうわけで、去年の9月から12月まで沖縄タイムスの「唐獅子」のコラムや、琉球新報の「共に考える・住宅デザイン」とかに書かせていただいたの で、まずは気の向くままにそれらの記事を掲載し、「まるみかなー」のコラムと致したく存じますので、なにとぞよろしくのほどお願い致します。

追悼・小浜守栄
去る8月27日、小浜守栄さんが亡くなった。小浜さんは故嘉手苅林昌さんらと共に戦後民謡黄金期の基礎を築いた歌手の一人だ。
1967年のリサイタルに、師匠の故照屋林山は「その美声と絶妙なるバチさばきによって、戦後の混乱した社会における文化的渇望にこたえて以来20余 年、彼の果たしてきた役割と功績は誠に偉大なものであります」と寄せている。
小浜さんは戦中、海軍省の募集で南洋諸島を農業人夫として従事した後、中国大陸の部隊へ召集された。死んでいった戦友をうらやむほどの過酷な行軍につぐ 行軍の末、捕虜となり、半年の後復員。やっとの思いで帰ってきた沖縄は
「何も無かった。家も無くてテントの下で暮らしていた。バシャムチャーするにもまともな馬なんても無い。大きな山羊みたいな馬を買って…、そして軍で働くようになった」。
そのころ、小浜さんの家の近くに山内昌徳さんと照屋林助さんの家があった関係でよく集まって歌談義をしていた。山内さんが当時花形の軍の「炊事アッ チャー」をしていたので、いつの間にか山内家が集まり場所になった。なにしろ物の無い時代、そのうち嘉手苅林昌さんや登川誠仁さんまでも立ち寄るように なってきたのも何も音楽のためだけではなかった。
ともあれ、山内家ではほとんど毎晩のように民謡バトルセッションが行われていた。そのリーダー的立場で、演奏をいつも先導したのが小浜さんであった。そしてそれは戦後沖縄民謡の夜明けでもあった。
敗戦の虚無感の中でひとり、沖縄の心を見失ってはならないと、庶民のうた民謡を歌って歌いまくった、小浜さん。彼の活躍こそが今日の島唄の興隆を促がし たと言っても過言ではないでしょう。小浜さんの情熱と功績を忘れぬよう肝に銘じつつ…。合掌。

文明開化のこの御代に 狭い地球は住み飽いた
火星木星金星と 晩年は月で隠居しょー

―小浜守栄作詞・ラッパ節―

2002年9月13日、沖縄タイムス「唐獅子」より

2003年2月25日

Vol.2 沖縄のアーティスト10人

コラムの更新を最低2週間に一度はやろうと思っているのですが、なかなかどうてこうしている間に一ヶ月が過ぎてしまいました。今回は来る9月5日から12月1日まで朝日新聞社主催で、復帰30周年記念「響きあう風土と文化・沖縄展」を京都、神戸、岐阜にて催されます。その展示パネルに沖縄のアーティスト10名について書きましたのでそれを載せることにしましょう。
2002年
9月5日(木)~9月10日(火)
大丸ミュージアムKYOTO
075-211-8111
2002年
9月19日(木)~10月1日(火)
大丸ミュージアムKOBE
078-331-8121
普久原朝喜(1903~1982)
現代沖縄音楽の元祖的存在。
超来村(現沖縄市)出身。
伝説のナークニー奏者富原盛勇を聞き歌者(ウタサー)を目指す。
二十歳。大阪へ。紡績工の後、喫茶店を経営。それが大繁盛となる。
昭和2年マルフクレコードを設立。
昭和17年、戦時下で中止されるまで、レコードタイトル五百曲以上を製作。チコンキー(蓄音機)フクバルの異名でプロデューサー兼歌手として活躍。妻の普 久原京子と共に後の民謡歌手に与えた影響は計り知れない。
川満勝弘(コンディション・グリーン)
1971年に結成された異彩なロック・グループ「コンディッション・グリーン」の リーダーでヴォーカル。
64年に喜屋武幸雄とともに沖縄ロックの幕開けとされる伝説のバンド「ウイスパーズ」を結成。
米兵相手のバーやライブハウスを69年まで活躍した。その後、「コンディッション・グリーン」を結成(グループ名は70年のコザ暴動の時、米軍によって発 令された非常事態警戒警報の英語からのめいめい)し、紫、キャナビスと共に沖縄ロックの黄金時代を築いた。
ジョージ紫(紫)
ロックバンド「紫」のキーボード奏者。
沖縄に生まれ、アメリカの大学でクラシック音楽理論などを学ぶ。その頃、イギリスのロックバンド「デイープ・パープル」などのサウンドに接し、大いに影響を受けた。
70年頃コザ市(現沖縄市)で後に「紫」となるバンドを結成し、ベトナム戦争下、米兵の集まるクラブで演奏して実力を磨いた。
75年に大阪で開かれた「8・8ロックデー」に出演し圧倒的な演奏で沖縄ロックの存在を高らかに示すと、翌年にはアルバム2枚を発表して全国ツアーを決行 し、一躍全国区の人気を得た。
嘉手苅林昌
沖縄本島中部の旧超来村(現在は嘉手納基地の中)出身。
歌人である母親の背中で民謡を子守唄に育つ。
10代後半大阪へ出て製材所で働く。
20歳頃南洋へ移民。
太平洋戦争の激化に伴い現地にて召集され負傷する。
49年、沖縄に帰郷。劇団の地謡として島々を歌い歩いた。以後、常に琉球民謡会の最高峰として精力的に活動し、小浜守栄らとともに島唄の普及・発掘に情熱 を傾けた。99年、肺がんのため世を去るまでアルバム約30枚、シングル100枚を録音した。人呼んで「島唄の神様」。
登川誠仁
兵庫県尼崎生まれ。
沖縄本島中部石川市で育ち幼い頃から三線の名手として鳴らす。
終戦直後から劇団の地謡として活動をはじめ、琉球芸能のあらゆる修練を重ねた。三線の早弾きを得意として、のど自慢、カチャーシー大会などで数々の賞を受 ける。琉球民謡協会設立に参画し、以後沖縄民謡界の中心人物の一人として活躍を続ける。99年には映画「ナビィの恋」に準主役として登場。現在でも沖縄を 代表する顔の一人として舞台などで民謡の枠にとどまらない芸達者ぶりを発揮している。
愛称は「セイグワー(誠小)」。
山里勇吉
芸能の島、八重山。その中でも歌の宝庫として知られる石垣市白保にて出生。貧しい農家に育ち、戦時中は軍需工場に徴用される。
57年、「八重山群島トゥバラーマ大会」優勝を皮切りに「のど自慢大会」など、数々の賞を受けた。
80年にはやはりトゥバラーマで第参回日本民謡大賞西日本優勝に輝く。
99年3月には八重山古典民謡の担い手として沖縄県無形文化財保持者に認定されたほか、国際的な活動でフランス、韓国などの賞を得ている。
国吉源次
宮古島を代表する歌手といえば、やはりこの人である。
宮古・城辺町の貧しい農家に生まれ、17歳の頃、自己流で三線を弾き始める。村芝居の地謡をつとめながらも本格的に歌に取り組んだのは30歳を越えてか ら。67年、「第20回NHKのど自慢沖縄地方大会・民謡の部」に出場し、「伊良部トーがニー」で1位となる。
ラジオから流れるその独特な声は宮古民謡の存在を強烈にアピールし、認識させた。
現在、宮古民謡保存会会長。
知名定男
兵庫県尼崎生まれ。
父は民謡界に多大な功績を残した知名定繁。幼い頃より子役として舞台に立たされる。57年、沖縄に移住。登川誠仁の内弟子になり「スーキカンナー」でデ ビューし、「天才少年」と脚光を浴びる。その後、嘉手苅林昌、山内昌
徳、照屋林助、普久原恒勇ら沖縄民謡黄金時代の諸先輩より多種多様な「うた」を学ぶ。本土復帰直前の71年「うんじゅが情どぅ頼まりる」(歌・瀬良垣苗 子)が空前の大ヒット。78年、アルバム「赤花」で本土デビュー。「ネーネーズ」の生みの親でプロデューサー。
沖縄民謡の祭典「琉球フェスティバル」のプロデューサーを務めるなど幅広い活躍で知られる。
大城美佐子
大阪は大正区に生まれる。
幼少期を沖縄本島北部・辺野古(名護市)で過ごす。二十歳頃本格的に三線を習い始める。料亭の仲居をしているときに、知人の紹介で知名定繁の門をたたく。 62年「片思い」でレコードデビューし大ヒット。情歌、速弾きと何でもこなし、その曲の多さは男性歌手も舌を巻く。1997年「絹糸声」のリリースはその 存在をファンに再認識させ、翌年の映画「夢幻琉球つる・ヘンリー」(高嶺剛監督)ではその芸の広さを強くアピールした。いまや沖縄を代表する女性歌手。
山里ユキ
沖縄本島北部本部町伊野波出身。
歌心あった父親の影響で自然に三線を弾き始める。
1961年「嘆きの梅」でデビュー以来、他の追随を許さない舞台活動、歌唱力、人気、ステージでの風格で、常に女性歌手のトップスターの地位に君臨している。
「本部ナークニー」など数々のヒット曲を飛ばし、86年に発表され彼女の代表曲となった「遊び仲風」は全島の民謡ファンをうならせた。
若手女性歌手の一番の目標の人である。