「Buck number」カテゴリーアーカイブ

Vol.3 追悼・小浜守栄

あっと言う間に2003年になりまして、もう2月も終わろうというありさま。毎日忙しいのはいいが、これではあっという間に爺(タンメ) になりそうだ(ただでさえふけているのに)。このホームページだってアップの仕方がわからなくて、つい手付かずにここまで来てしまった。何とかしましょ う。
と、いうわけで、去年の9月から12月まで沖縄タイムスの「唐獅子」のコラムや、琉球新報の「共に考える・住宅デザイン」とかに書かせていただいたの で、まずは気の向くままにそれらの記事を掲載し、「まるみかなー」のコラムと致したく存じますので、なにとぞよろしくのほどお願い致します。

追悼・小浜守栄
去る8月27日、小浜守栄さんが亡くなった。小浜さんは故嘉手苅林昌さんらと共に戦後民謡黄金期の基礎を築いた歌手の一人だ。
1967年のリサイタルに、師匠の故照屋林山は「その美声と絶妙なるバチさばきによって、戦後の混乱した社会における文化的渇望にこたえて以来20余 年、彼の果たしてきた役割と功績は誠に偉大なものであります」と寄せている。
小浜さんは戦中、海軍省の募集で南洋諸島を農業人夫として従事した後、中国大陸の部隊へ召集された。死んでいった戦友をうらやむほどの過酷な行軍につぐ 行軍の末、捕虜となり、半年の後復員。やっとの思いで帰ってきた沖縄は
「何も無かった。家も無くてテントの下で暮らしていた。バシャムチャーするにもまともな馬なんても無い。大きな山羊みたいな馬を買って…、そして軍で働くようになった」。
そのころ、小浜さんの家の近くに山内昌徳さんと照屋林助さんの家があった関係でよく集まって歌談義をしていた。山内さんが当時花形の軍の「炊事アッ チャー」をしていたので、いつの間にか山内家が集まり場所になった。なにしろ物の無い時代、そのうち嘉手苅林昌さんや登川誠仁さんまでも立ち寄るように なってきたのも何も音楽のためだけではなかった。
ともあれ、山内家ではほとんど毎晩のように民謡バトルセッションが行われていた。そのリーダー的立場で、演奏をいつも先導したのが小浜さんであった。そしてそれは戦後沖縄民謡の夜明けでもあった。
敗戦の虚無感の中でひとり、沖縄の心を見失ってはならないと、庶民のうた民謡を歌って歌いまくった、小浜さん。彼の活躍こそが今日の島唄の興隆を促がし たと言っても過言ではないでしょう。小浜さんの情熱と功績を忘れぬよう肝に銘じつつ…。合掌。

文明開化のこの御代に 狭い地球は住み飽いた
火星木星金星と 晩年は月で隠居しょー

―小浜守栄作詞・ラッパ節―

2002年9月13日、沖縄タイムス「唐獅子」より

2003年2月25日

Vol.1「まるみかなー」ってどういう意味ですか?

島唄カフェまるみかなーも開店して2ヶ月なりました。
その間いろいろな方々から沢山の助言と励ましをいただきました。
感謝感謝です。そしてこのホームページを開設することができました。島唄ファンの皆様、よろしくお願いします。
「まるみかなーってどういう意味ですか」 何度も何度も訊かれたし、これからも尋ねられることでしょう。そこで第一回目の今回は民謡「汀間当」のヒロイン、まるみかなーについて書きましょう。
『汀間当』(ティーマートゥ) 

汀間(ティーマ)と安部境(アブサケー) 兼下(カヌシチャ)ぬ浜下り(ハマウリ)て
汀間ぬ 丸目加那(マルミカナー)と
請人神谷と恋ぬ話
サーふんぬかなひゃー誠かや

神谷が云言葉や 何で言ゅたが
明きて四、五、六月
サー呼わし来ゅうくと
勤みて待っちょりよ
サー出来ちゃんやーひゃー丸目加那

月ぬある間る 思いんすんど
沙汰んすんど 月ぬ西下れえ
サー思いんさんど 沙汰んさんど
サー寄て来う かん来う我腕枕

装(スガ)てやらちゅる 我島二才達(ニーセーター)
とかく今(ナマ)自分のー
サー首里(スイ)登とうて 我沙汰すらど
サーやらすがや 呼び戻せ

(訳)
汀間と安部の境の兼下の浜を下りて
汀間の美人丸目加那と
首里からの請人神谷との恋のはなし
サー本当か 誠か 

神谷は何といったか
明けて四、五、六月に
使いが来るから
よく勤めて待っておけよ
サーよかったねー 丸目加那

夜の月の照る間は思いもするし
噂もする 月が沈んでしまえば
思いも噂もなくなってしまう
サー寄ってきて私の腕枕

着飾って見送った汀間の青年達
とのかく今ごろは
首里に向かいながらも 私の事を考えて
サー首里へなど行かすな 呼び戻せ

 

 

 

「ケーヒットリ節/マルミ加那節」(昭和16年) 三線・唄:普久原京子 FM-207 マルフクレコード
名護市の東海岸の大浦湾に面した汀間と安部の境に美しい砂浜の海岸が有りまして、今は大きなホテルが建っているのですが、そこで丸目加那と請人神谷は夜な夜なデートを重ねたのでした。
汀間の丸目加那はあまりに美しかったので村のニーセー達は声をかけるのさえもはばかれたと言う。そこへ首里からの請人(王府の御用品を収納する役人)神谷 は権力をカサに丸目加那をものにする。ニーセー達は面白くありません。「ナヴィの恋」ではありません。スキャンダルを琉旋に乗せカチャーした。そしてつい に丸目加那は失恋して島(汀間)戻ってきたそうです。 

もちろん島唄カフェまるみかなーの名前は美女丸目加那から拝借したということは言うまでもありません。
店内には昭和16年録音の、普久原京子唄う「マルミ加那節」や嘉手苅「汀間当」「汀間当小」。喜納昌永の舞踊曲「汀間当・月の夜節」。最近では大城美佐子唄う「汀間当」(あばさーレコード)等をはじめいろいろな歌手の歌う「汀間当」が聴けます。

2002年7月8日