日別アーカイブ: 2011/05/23

第2回 核シェルター

 二十年前の今ごろ、私は中国大陸にいた。正確にはもう一人連れが居たような連れられていたような‥。マイナス十度の北京はせわしく、公務員たちがだだっ広い道を肩をすぼめて急ぎ足で行き交っていた。天気も吹雪いて、万里の長城へも行けず、その地を後にすることに。

北京中央駅にてさあ何処行こうかと思案していると、チケット買いませんかと声を掛けられる。「どこ?」「ハルビン」交渉成立。超格安で入手したとはいえたどり着いたは極寒の地・満州はハルピン、鼻水がみるみる凍るほど寒い。

 ハルビン駅中央口にてさあどうしようかと震えながら思案していると、宿を探してるのか、と中年の男に声を掛けられる。「安い?」「でーじ安い」交渉成立。自転車タクシーに乗せられ、氷の町を三十分余りも移動して着いたと言われたところは、一面雪の平原。騙されたか、と身構えると、実際我々を案内した中年の男はどう見ても人を騙す体格ではないし、カンフーの達人とも思えなかった。ニヤニヤ笑ってここだ、と言う。確かに目の前にはコンクリートのでかい柱が立っていた。

 大きな取っ手を引き寄せると幅三十センチ以上もあるドアが開かれた。急なラセン階段をおどおどと降りたのは何も寒かったばかりではなかった。この施設が核シェルターであることは一目で理解できる。どうやらその一部を庶民の宿として利用しているようだ。その男がフロントに一通りの説明をして、身分証明書の提示を求められ、日本のパスポートを見た彼ら全員が驚いて叫んだ。「外国人だったのか?」どうやら少数民族と思われたらしい。外国人は決して泊まれないというが、その男の説得で何とか宿を確保することができた。

 核シェルター宿は今でも営っているのだろうか?

2007年1月30日 琉球新報夕刊「南風」掲載より

第1回 三板名人

 三板は三線とならんで今や県産楽器の代表の一つとなっている。毎年三月八日には「サンバの日」と称して日本三板協会(杉本信夫会長)主催でイベントも行われている。手軽で何処でもどんな音楽にも対応できるリズム楽器=三板。沖縄オリジナルの素材としてもっともっと大切にされて普及していってもおかしくない。

♪セイ小三線に 山内歌乗して 太鼓嘉手苅に 三板昌永 ―宮古根―

と、かつて歌われ、登川誠仁の三線に、山内昌徳が歌い、嘉手苅林昌が太鼓たたき喜納昌永の三板、これぞ当代の最高の耳薬!と絶賛した。これを今日日の演奏者に当てはめるとなると色々と意見があり、問題も生ずると思うが、三板の名手は誰でしょうかという質問に私は田場盛信その人だと躊躇なくいうことができる。田場盛信といえば72年金城恵子とのデュエット曲「ハワイ便り」でレコードデビュー。75年の「島の女(ひと)」をヒットさせ、いわゆる新民謡の騎手として民謡界の牽引者となった。持ち前の人当たりの良さから主婦層の人気を独り占めしたことは伝説ではなく、恐るべし、今でも続いているのである。三板に関しては師匠の登川誠仁からその技法のすべて習得し、認定証もいただいている。

 日本三板協会の理事長の役職も担い、三板普及にも人一倍熱心である。氏の刻む三板のリズムは正確で乱れることなく、一音一音にしまりがあり、聞く人の耳に実に心地良く共鳴する。三枚の板切れが三味の音色に伴って雲雀はさえずり、身体は勝手に跳躍し自然の中へと誘われる。極められた芸というのは何時聴いてもいいものである。さて、我がいーやーぐゎーでも月一で三板実践教室&ライブを行っているのですが、今年の一番手は田場盛信です。

2007年1月30日 琉球新報夕刊「南風」掲載より