Vol.9 竹中労の顕彰碑建立

竹中労が、若者の間で今静かなブームになっているという。背中に大きな刺青を背負い、芸能レポーターからアナーキスト。映画評論から宗教解説。筆者自身、高校の頃「エライ人を斬る」や「琉球共和国」と出会い、当時の県知事・屋良朝苗をコキおろし、琉球断固独立すべしと、煽られ、雷にでも撃たれたようなショックを受けたことを今でも覚えている。
 マルチクリエーターとして活躍した型破りなジャーナリスト・竹中労の仕事の中で、沖縄音楽に関するルポルタージュは沖縄にも本土にも一つのエポックを画したことには間違いない。
1969年に沖縄を始めて訪れて以来、彼ほど沖縄音楽の独自性と地域性を強調した人はいなかったし、彼ほどその取り巻く状況に警鐘を鳴らした人もいなかった。
 「ジャパナイズの毒流はウチナーンチュの心を“本土並み”に荒廃させていく」 (琉歌幻視行)
 1973年から75年までの短い間に、渋谷ジャンジャンを皮切りに、何度となく歌会を主催。74年、75年と3度の琉球フェスティバルの開催。その間36枚に及ぶメジャーからのレコード製作。このように十全といってよい質と量で沖縄音楽を世に問えたことは、沖縄側からしてもまさしく奇跡的なできごとであった。それこそが、島うた=沖縄民謡が始めてきちんとしたかたちで紹介された期間であった。
 その頃、沖縄においては復帰から海洋博、ナナサンマル(交通方法変更)と、まさしく“本土並み”へと時代は流れていた。そして皮肉なことに、沖縄のなかで、沖縄音楽が一番人気のあった時代でもあった。レコード生産を各レーベルが競い合い、民謡クラブは雨後の竹の子のように増えた。そんな勢いのある火に油を注ぐかのように、竹中の情熱とエネルギーは嘉手苅林昌をはじめとする島うたの巨人達と本土への逆上陸を試みた。それがちゃんと認識されなっかたにしろ、十分その基礎になり得たことは事実だ。竹中労の情熱に沖縄の歌者はどれほど励まされ、勇気づけられたことだろう。その結果としての借財と雑言はツケにしてはあまりにも大きすぎなかったのではなかろうか。本人にとっては。
 しかし、島うたはウチナーンチュ自身が誇りを持って語るべき音楽であるということを再認識できたのである。少なくとも沖縄の歌者には。

沖縄芸能新聞「ばん」創刊準備号〜ごぉぐち撩乱 つかさの部屋〜より

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