例えば三線の習得において、島唄や古典音楽のその歌(琉歌)の意味を確かめ理会(理解)することが大切であるということは言うまでもない。ましてやその歌の発祥地や、関係する土地へ出かけ、そこの景色に触れ、空気を感じることができれるとすればまさしく深い意味で“理”に出会えるというもの。
というわけで年に一度の遠足「小浜司と行く歌碑巡りツアー」が今年も企画され、総勢五十人で大型バスに乗り込んだのは、去る二月四日。今回で四度目ということで、一行はヤンバルを目指した。名護から国頭へと南北東西を桜舞い散るなか(残念ながら舞ってなかったが)歌碑を求めて走り、歌碑の前にて呼吸し、三線鳴らし歌い、シャッターを切った。主な歌碑はというと、白い煙と黒い煙の碑、名護浦の深さ…の碑、大兼久節、奥間の国頭サバクイ、与那節、辺野喜節、謝敷節、安波節など。
初っ端から名護城の階段を登らせてとのブーイングをよそに、七分咲きの桜は我々を「白い煙と黒い煙」の碑へと導いた。この記念碑は戦前、沖縄師範学校教諭として赴任して九年間教鞭をとった、稲垣国三郎(一八八六~一九六七)が本土へ戻り沖縄を回顧して著した随筆集「琉球小話」(一九三六刊)の一節、白い煙と黒い煙に由来している。当時、二万もの沖縄の若者が紡績の女工などの仕事を求めて本土へと流れた。那覇まで見送りにいけない家族のものが、小高い丘の上から燃えにくい松の葉を燃やした白い煙で海の上を走る船から立ち上る黒い煙へ、自分の身内へ、と合図を送る。その光景に感動した稲垣はエッセーをしたため、全国の教科書に載った。後の名曲「別れの煙」(知名定繁作詞作曲)の誕生の伏線もそこらへんに、ありゃ、紙数が尽きた。
2007年2月13日 琉球新報夕刊「南風」掲載より