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VOL.7 さらに琉球フェスティバル’75

初期の琉球フェスティバルは、ルポライター・竹中労(1930-1991)個人の情熱とエネルギーで実現した、歌の祭典であった。
それは沖縄音楽(民謡)が初めて本格的に紹介された催しであったといってもよい。
琉球フェスティバル’74、琉球フェスティバル’75春、琉球フェスティバル’75夏、と3度に及ぶフェスティバルは、本土のみならず沖縄の歌者にも大きな影響を与えた。
当時の結果は惨憺たるものであったようだ。大きな借財と内外からの罵詈雑言の雨嵐。
しかし、「琉球共和国」「琉球幻視行」という2冊の著作と35枚のレコードが残されたことは、今からすれば本人の言う「むくわれぬことは百も承知であった」(「島うた通信-冬」より)というものでは決してなかった。
少なくとも、いいもの、最良のものを記録しようとした意思と、残されたそれらのドキュメントはとりわけ90年代に起こる島唄ブームの基本でもあり、目標にもなりえたのだから。
しかし、竹中労が思い描いていたような、願っていたような方向に現在の「島うた」が在るかどうかはまた別の問題といえよう。
それは私にとっても大きなテーマであるので、いつか取り組みたいと思っている。
ともあれ、沖縄音楽が沖縄の中で一番勢いのあった頃にヤマトの一人の天才ルポライターと島唄の巨人らがひとつの方向に向かっていったエネルギーをここでは確認できれば(もちろん音源を聴いて)それでいいのです。
最近の算盤だけをはじくドキュメントは後々に淘汰され復習されるであろう事も。
『琉球フェスティバル』といえばこのレコード→
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Vol.6 琉球フェスティバル’74

店に飾ってある『琉球フェスティバル’74 (島うた/その風とリズム)』のレコードジャケットを見て、琉球フェスティバルってそんな昔からやっているの? とよく聞いてくる。
「そんな昔にもやっていたんだよ。島うたが今のように市民権を得られず、本土に受け入れられていなかったみたいだよ」
「どうしてですか」
「言葉でしょう。歌の意味がわからないから」
島唄最大のイベントと称されるいる琉球フェスティバル。
今では言葉の壁を乗り越えて、閉塞した日本音楽状況の癒しとなっている、という。
これでいいのか日本帝国!(すみません、つい竹中労氏の言葉を借りてしまいました)
というわけで、 日比谷野音の実況レコードを聴いてみよう。 

まず、嘉例(カリー)付け。山里勇吉の『鷲の鳥』。
司会の照屋林助登場。
「沖縄の里々浦々を島うたをとりそろえて持って参りました…、つづいて嘉手刈林昌の赤山…」
五十代の嘉手刈林昌と十代の息子林次との競演。
知名定男が『具志川ナークニー(門たんかー)』を、大工哲弘が『与那国しょんかねー』、照屋林助『職業口説』、金城睦松『ましゅんく節』と続いていく。
絶頂期の山里勇吉の『トバラーマ 』、『六調』は絶品。
そして最後にエイサーからカチャーシーでエンディング。
よくぞこれほどのドキュメント(音源)を、あの頃に残せたものだと竹中労氏のエネルギーには、つくづく感心せずにはいられない。
一度、島唄カフェ「まるみかなー」で、琉球フェスティバル’74ののレコードを聴いてから、今年(2002年)の琉球フェスティバルを観にいくことをすすめます。
デジタルにはなっていません。

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