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第7回 よなは徹へ期待と危惧

 よなは徹はかっこいい。オリオンビールのコマーシャルで流れる「北風」。新たなるウチナー三絃の可能性を秘めた意欲的な曲だ。話が古いかもしれないが、かつての高中正義や渡辺香津美のギターがテレビのCMで流れた時のショックを彷彿させられるし、ウチナーで言うと喜納昌吉の「レッドおじさん」が流れたときを思い出さずにはいられない。

 二〇〇四年十二月にリリースされた『カチャーシー・ア・ゴーゴー』なども中々良い出来だと思う。自分のふるさと、北谷町のエイサー仲間を引き連れての我がまま(?)録音はプロデューサー・よなは徹の真価が発揮され始めたアルバムと言えよう。しかし、よなは徹よ、気を緩めてはなりませんぞ。私は危惧するのだ。七十年代後半、かつて(沖縄内で)沖縄音楽ブームの翳りが見えかけたころ、喜納昌吉、知名定男、そしてコンディショングリーンと、二の腕に力瘤を固めて本土逆上陸を試みた。我々地元の熱烈なファンは彼らの才能と実力に期待を注いでいた。しかし、その扱われ方にはある種の怒りさえ感ぜずにはいられなかったものだ。沖縄音楽の特異性や地域性はほとんど伝わらなかったに等しかった。それでもその存在とエネルギーを問うことができたことは大きい。

 あれから三十年。時代は変わったと言うかもしれない。確かに九十年代のワールド・ミュージックに便乗して沖縄音楽ブームが起こり、ネーネーズ、りんけんバンドそしてビギン、夏川りみなどが登場一個の音楽エリアとしてのその扱われ方には格段の変化をみせたかもしれない。

 しかしそれはただ単に中央が閉塞しているということでしかない。状況は大して変わっていないのだ。沖縄国際大学の構内に米軍のヘリコプターが落ちても騒がず、ナベツネ退団のニュースをトップに流す国なのである。音楽状況に至っても、未だどこぞの国の焼き直しの代用としてしか考えられないのが現状だ。中央は音楽も政治も救えない程閉塞している。だから、よなは徹よ、気を緩めてはなりませんぞ。もっと自由にもっと大胆にもっとかっこよく……。自分の今までやってきたことを音にして、これからやりたいことを中央に対して我がままに通していってもらいたい。さらなる熱狂の火をけさないために。

2004年2月1日 沖縄藝能新聞『ばん』第9号より

第6回 嘉手苅林昌 唄と語り

 私はかつて高嶺剛監督作品『夢幻琉球・つるヘンリー』(一九八八年)を琉球新報に一度観て「なんだこりゃ」二度観て「そうか」と頷き三度観てマチぶった(もつれた)糸を手繰り寄せられる、ハリウッド映画に無い高嶺幻想ワールド。と、紹介した。考えてみると、高嶺映画は一度より二度。去年より今年。五年、十年後と、色あせるどころか余計に新鮮な色彩と匂い我々の前に魅せてくれる不思議な魅力がある。見る度に凄いことだと感心させられる、高嶺イリュージョンに浸りもっともっとうつつをぬかしたいものだ……。

 嘉手苅林昌が亡くなって五年。その間たくさんのCDが復刻され、その質と量は改めて思い返しても、その存在の大きさに今更ながら思い知らされる。そして今年の春『嘉手苅林昌 唄と語り』がDVDで復刻された。一九九五年劇場公開されて好評を博した撮り下ろしビデオの復刻盤である。構成・編集・監督を高嶺剛。様々な沖縄の風景-コザの裏町や芭蕉生い茂る森、喫茶店の中や竹富島の床屋など、竹富島の床屋では散髪してくれたお礼に一曲お返しをする-の中で語り、唄う。高嶺映画独特の色彩の中で、嘉手苅林昌が絵の一部として唄が一人歩きする。この先何十年も嘉手苅は行き続けられるのだ。

 ライナーノーツで上原直彦は嘉手苅を「風の唄者」と称している。まさに千変万化する歌詞とリズムを三絃に乗せて興のおもむくまま唄うとすれば、それは高嶺の変幻自在にアジアの色をその風に被せかける。ラストの白い砂浜で唄う「忍び仲風」は何と表現したらよいだろう。♪もしもしちょいと林昌さんわたしゃアナタにホーレン草と高嶺監督はここで呟いていたに違いない。

 諸般の事情で入手困難になっていて、待望久しい映像がDVDによって復刻されたことは実に喜ばしい限りである。が、その装丁を手に取ってみたとき、即座に何だか違うと感じるのだ。元のビデオとあまりにもかけ離れたデザインには中身とのギャップを感ぜずにはいられない。せっかくの沖縄音楽映像としての傑作が台無しだ。それよりも何よりも高嶺剛の名前がジャケットのどこにも無いのが気にかかる。この作品の権利が誰のものであろうとも高嶺剛が監督した作品である。何か意図するものがあるとしてもデリカシーに欠けてはいまいか。批判されて当然である。制作者は高嶺に詫びを入れて今一度作り直すべきと考えるがどうであろうか。

2004年12月1日 沖縄藝能新聞『ばん』第6号より