私はかつて高嶺剛監督作品『夢幻琉球・つるヘンリー』(一九八八年)を琉球新報に一度観て「なんだこりゃ」二度観て「そうか」と頷き三度観てマチぶった(もつれた)糸を手繰り寄せられる、ハリウッド映画に無い高嶺幻想ワールド。と、紹介した。考えてみると、高嶺映画は一度より二度。去年より今年。五年、十年後と、色あせるどころか余計に新鮮な色彩と匂い我々の前に魅せてくれる不思議な魅力がある。見る度に凄いことだと感心させられる、高嶺イリュージョンに浸りもっともっとうつつをぬかしたいものだ……。
嘉手苅林昌が亡くなって五年。その間たくさんのCDが復刻され、その質と量は改めて思い返しても、その存在の大きさに今更ながら思い知らされる。そして今年の春『嘉手苅林昌 唄と語り』がDVDで復刻された。一九九五年劇場公開されて好評を博した撮り下ろしビデオの復刻盤である。構成・編集・監督を高嶺剛。様々な沖縄の風景-コザの裏町や芭蕉生い茂る森、喫茶店の中や竹富島の床屋など、竹富島の床屋では散髪してくれたお礼に一曲お返しをする-の中で語り、唄う。高嶺映画独特の色彩の中で、嘉手苅林昌が絵の一部として唄が一人歩きする。この先何十年も嘉手苅は行き続けられるのだ。
ライナーノーツで上原直彦は嘉手苅を「風の唄者」と称している。まさに千変万化する歌詞とリズムを三絃に乗せて興のおもむくまま唄うとすれば、それは高嶺の変幻自在にアジアの色をその風に被せかける。ラストの白い砂浜で唄う「忍び仲風」は何と表現したらよいだろう。♪もしもしちょいと林昌さんわたしゃアナタにホーレン草と高嶺監督はここで呟いていたに違いない。
諸般の事情で入手困難になっていて、待望久しい映像がDVDによって復刻されたことは実に喜ばしい限りである。が、その装丁を手に取ってみたとき、即座に何だか違うと感じるのだ。元のビデオとあまりにもかけ離れたデザインには中身とのギャップを感ぜずにはいられない。せっかくの沖縄音楽映像としての傑作が台無しだ。それよりも何よりも高嶺剛の名前がジャケットのどこにも無いのが気にかかる。この作品の権利が誰のものであろうとも高嶺剛が監督した作品である。何か意図するものがあるとしてもデリカシーに欠けてはいまいか。批判されて当然である。制作者は高嶺に詫びを入れて今一度作り直すべきと考えるがどうであろうか。
2004年12月1日 沖縄藝能新聞『ばん』第6号より