第10回 国際通りとウチナーグチ

 宜野湾から那覇に移って二年近くなる。結構、引越魔である。三年から四年に一度はあの重たい本やレコードをうんしょうんしょとかついでいるのである。

 那覇に住んで一番気になるのはウチナーグチが通じないことである。道で枯葉を掃除しているおばちゃんにウチナーグチで語りかけてもヤマト口が返ってくるし、マチグヮーで野菜を売っているおばあちゃんに「ウヌチキナー、チャッサヤミセービーガヤー」(これいくらですか?)と、訊くと「えっ?からし菜ねぇ、これ今日高いよー」と答える。ヤンバル(本島北部)で生まれ育ったぼくには、おばあさんと見うけられる女の人がわざとじゃないヤマト口を使っているのは今もって不思議なことなのである。これが那覇に住んでいると、本気でウチナーグチを使えないおばあさんが存在するのは、僕にはウソの世界にいるようで気持ち悪いのだ。

 奇跡の一マイルといわれる国際通り。

 そこにはすべての沖縄が在る。泡盛にウチナー料理にカリユシウエア、エトセトラ。しかし、ウチナーグチが全く使えない一マイルと化しているのはどうにかしているのではないか。誰も変と思わないのだろうか。民謡クラブでさえ、ウチナーグチを使えば「何処からきたのー、ウチナーグチうまいねえ、今何と言ったの?」だ。国際通りも二世三世の世代だし、ヤマトンチュの経営者も多い。お客もほとんどが観光客だし、ウチナーグチは必要ないのかもしれない。国際通りが沖縄の先駆けならウチナーグチの通用しない奇跡は百マイルに及ぶのにはさして時間はかからないだろう。

 よく沖縄の人は他所からの品物や文化などを受け入れ、それを自分たちの都合のいいように改良して新しいものを創っていくのが得意だという。それをチャンプラリズムと称している。しかし反面、元々ある自分たちの良いものをいとも簡単に捨ててしまう悪い癖もある。今、ブームといわれる沖縄音楽や泡盛にしたって、つまるところ中央の消費資本の閉塞状況の煽りを受けての再認識である。ややもすれば滅びゆく文化になりかねなかったのである。

 ウチナーグチは今、滅びつつある。那覇ではもうほとんど滅んでいる。いつか滅びるのだろうが、まだ滅んではいけないとぼくは切に思っている。

 では保護(?)するためにはどうするか。話す以外にない。他の外国語と同じようにたとえ間違っていても使う以外にないのだ。ウチナーグチにすぐ「イヤームノーヲカサンドー」(君の言葉おかしいぞ!)と言って、相手をたしなめる癖がある。こう言われると二度と使わなくなってしまう。相手をシュンとさせるのではなく「カンシイイセーマシドー」(こう言った方がいいよ)のさりげないアドバイスでかなり変わるのではないかと思う。どうでしょう?「島唄の中にしかウチナーグチは残らない」とはまだ今は言いたくない。

2005年10月1日 沖縄藝能新聞『ばん』第17号より

第9回 さらば国際通り

 去る6月5日に那覇文化テンブス館にて島唄カフェまるみかなー三周年記念ライブ「御祝え③(まるみ)ぬ世」を催した。まるみかなーで毎月行われる通常ライブを外で、拡大コンサートにしたらどうなるかという実験であった。お客さんへの感謝の還元だけではなく、まるみかなーらしく、アグレッシブに、これからの沖縄音楽に何らかの方向性を持たせるようなライブにしたいと思っていた。

 いざ会場を押さえ、出演者を絞り、予算をたててみるとなかなか厳しいものがあった。テーゲー・オフィス屋宜や喜屋武が協力するというのでやっと決心がついた。その内容は当日いらした方ならご存知のように、自分でいうのもなんだがイメージ通りのすばらしいライブに仕上がったと思っている。出演者を見てみよう。徳原清文、よなは徹、貴島康男、内里美香の四人。実力者・徳原清文をまずじっくり聴かせたい。これが私の最初に浮かんだ発想。そこに奄美の貴島康男の燃え滾ったマグマが貫入してきたら…。火消し役に、よなは徹と内里美香。という設定であった。となるとこのメンバーのまとめ役は吉澤直美(MC)しかいない。男三人の挑発に、美香のエネルギーが一気に行っちゃうと手がつけられなくなるので幕開けが必要だ。そこでまるみかなー臣下の登場というわけだったが、案の定、美香が走った。徹が手の内を見せ、康男がリズムを刻んだ。こうなると徳原清文は横綱相撲をとるしかない。しかし上手を取ると速かった、相手(観客)に有無を言わせないのだ。那覇の国際通りで、島唄カフェ・まるみかなーをやってよかったという瞬間であった。

 さて、八月末にて国際通りを出ます。しばらく休憩してエネルギーを蓄えて、また、まるみかなーを走らせたいと思っています。

2005年8月1日 沖縄藝能新聞『ばん』第15号より