第4回 蜘蛛の精『月城物語』

 沖縄で一番最初のカラー映画をご存知でしょうか。一九五九年元旦に那覇劇場で封切られた、乙姫劇団総出演『月城物語』(大日方伝監督)という映画がそれです。乙姫劇団は一九四九年、戦後の混乱期の最中結成された、女性だけの芝居一座です。踊りと歌劇を得意とし、長らく人気を保ち続けていましたが、一昨年(二〇〇二年)ファンに惜しまれつつ解散しました。その乙姫劇団の創立十周年を記念して制作されたのが『月城物語』『山原街道』の二作です。監督は俳優業を捨ててブラジルへ移住した松竹の大スター大日方伝で、ウチナーグチが解らないため苦労したといいます。米軍統治下でウチナーグチによる映画が作られたことは、日本映画史からしても番外です。そのことだけでも貴重な作品と言えましょう。

 『月城物語』は第三回演劇コンクールへの参加作品で、劇団員の兼城道子の作。ジャン・コクトー『美女と野獣』にヒントを得て、沖縄の風土と歴史の中に役柄を限定した幻想劇に脚色したものです。そして見事一位入賞を果たしています。物語は、女性だけの美しい“月城”には年に一度、恐ろしい蜘蛛の精に城の乙女を捧げなければならない定めがありました。月城には三人の娘があり、長女真犬金は城や母親や妹達を救うため自ら犠牲になることを決め、煩悶をします。それを憐れんだ弁才天の神様は、通りすがりの漁師に神通力を与え、格闘の末、蜘蛛の精を倒し、姫を救い出します。手留間の王子(漁師)となり、月城の婿として迎えられ、三人娘の三組婚礼祝宴にてエンディング。

 間好子演じる、蜘蛛の精(クーバーヌシー)の神出鬼没の演技は舞台でも映画でも話題を呼び、“若き沖縄の団十郎”の名も生まれたほどだといいます。月城の母に伊舎堂正子、長女・真犬金に兼城道子、手留間の王子に大城光子、他に宮城総子、清村悦子、上間初子、内間清子ら乙姫劇団の人気役者の若き姿がここにあります。

 映画『月城物語』は戦後沖縄芸能史に照らし合わせてとても貴重な作品と言えます。現在、沖縄県公文書館に収蔵されていますが、その存在さえほとんど知られておりません。それははやり提供側の怠慢だと言わねばなりません。

2004年10月1日 沖縄藝能新聞『ばん』第4号より

第3回 君知るや 小浜守栄

 小浜守栄という歌者(ウタサー=歌手)をご存知でしょうか。今回、沖縄芸能人プロフィールでもとり上げたのですが、ぜひ覚えていてもらいたいのです。戦後沖縄民謡黄金期を築いた最大の貢献者の一人です。彼の情熱と行動がなかれば今日の島うた=民謡の興隆はなかったと言っても過言ではないでしょう。

 小浜守栄は研究者としてはリーダー的存在でありましたが、表現者としては大いなるサポーターでありました。従って彼の独唱というのは嘉手苅林昌や喜納昌永など、、他の活躍した島うたの巨人等に比べてとっても少ない。数多いレコーディングもほとんどが合唱であり、本人は伴奏も歌もサポート役にまわっているのです。

 私は彼のひょうきんな「アキトーナー」と「月と涙」の絶唱が大好きです。

 うぬちゃ年取たみヨ
 元びれぬ小ぬ
 ウサ小やアキトーナー
 (ありゃりゃ、昔の恋人のウサ小はこんなに年とっちゃって…)

 その歌声を今ではあまり聴くことができないのはなんだか残念です。

 十九歳の時、海軍省の募集に応じ、農業人夫として南洋諸島に赴きます。太平洋戦争が勃発して、現地にて召集されて中国大陸に渡ったのが二十二歳の時。行軍に継ぐ行軍。筆舌に尽くせない苦難が待っていました。

「生きていたのが珍しくもあれば、死んでいった戦友が羨ましくもあった。うぬあたいあわりやったさー」

 マレーシアにてイギリス軍の捕虜になり、半年間の強制労働の後、命からがら復員。神奈川県逗子の沖縄県人用の沼間寮にて嘉手苅林昌と再会するも、玉砕した故郷が気がかりで一足先に沖縄を目指します。

 しかし、「沖縄は何も無かった」。移民、軍隊、捕虜、復員、あれ程哀れして帰ってきたのに…。

 「やがて野村流古典音楽照屋林山師範の門に入った氏は、敗戦の虚無感の中に音楽への情熱を見出し、昴まる心は庶民のうた民謡への開眼奔流のように突っ走り、歌って歌いまくった」(一九六二年、小浜守栄リサイタルのパンフレットより)

 小浜守栄は嘉手苅林昌を連れ添って沖縄本島全土を歌い回ります。性格も生き方も全く違う二人ではありましたが沖縄音楽への情熱と使命感は一致していました。異民族支配の荒々しい時代に、見失ってはならない沖縄の心を三味線の音にたくしたのです。

 いつしか二人の声は区別がつかないくらい似通っていました。やがて庶民の生活に民謡が根付くと小浜守栄は一線から退きました。今こそ小浜守栄の情熱を忘れないようにしたいものです。

2004年9月1日 沖縄藝能新聞『ばん』第3号より
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