Vol.10「スピリチュリアル・ユニティ」を斬る

今回は発売当時から気になっていたCDのゴーグチ(不平)を一発。すなわち2001年にリリースされた「スピリチュアル・ユニティ」(リスペクトレコードRES-45)登川誠仁のアルバムだ。時の人・セイグヮー(登川誠仁)やレーベルに文句を言うつもりはない。そのプロデューサーに一言ゴーグチをかませたい。
 タイトルの「スピリチュアル・ユニティ」。あれは何ぞや?ジャズ・サックス奏者・アルバート・アイラーが1964年に発表したアルバム名じゃないですか。登川誠仁と言えば、沖縄島うた=民謡の顔であり、最高のブランドである。そのCDアルバムにどこぞの国のアーティストのレコードタイトルをそっくりそのままつけるなど以ての外、沽券に関わる問題でありますぞ。
 プロデューサー・藤田正は言う。「登川さんがNYやメンフィスに生まれていたら、間違いなく、ロックンローラーになっていたでしょう」(箆柄暦、2004年3月号)
 彼の音楽の認識が実はこの程度でしかないのかと思うと、なるほど頷ける。沖縄に育ったセイグヮーは十分“ロックンローラー”だと我々は思っているし、島うたがロックンロールよりも劣るなどと考えてみたこともない。実際、私は物心ついた頃から、嘉手苅林昌や登川誠仁のうたを垣間見ることができた。沖縄島うたはいうなれば格闘技であった。登川誠仁は庶民=聴衆との格闘を制してきたのである。セイグヮーのカチャーシーは“ロックンロール”以上なのだ、そう思っているウチナーンチュは私だけではない。
 そして藤田は言う。
「自分(登川)はどんな人とも渡り合えるんだという強い自信があるのでしょうね」 (同前掲)
 そのどんな人というのがソウルフラワー・ユニオンだ。ステージでどういう企画を持ってきてもいいと思うが、質の高い登川音楽のCDを企てるのであれば、たとえ登川が望んだとしても彼等の役不足は否めなかったのではないか。登川を引き立てるどころか自分達を前面に押し出そうとして、結果、登川の三線の美ら弾きが分散され妙に貧乏くさい音になっている。「ヒヤミカチ節」などはベース音一つにそのリズムは殺され、躍動感を全く失っている。「美ら弾き」(ビクターVICG-5164)や「登川誠仁・独演会」(ンナルフォン・38NCD-27-28)のそれと聴き比べてみるとよい。酔虎・登川誠仁の面目たる牙は殺ぎ落とされ、映画の延長の“癒し”というやつ。藤田の狙いは実はそこら辺にあったのではないか。次のアルバム「スタンド」(RES-66)では見事なまでに好好爺を演じさせられているではないか。
  「スピリチュアル・ユニティ」は民謡ではなく、ポップ・ミュージックというが、算盤勘定だけの志の低いアルバムだ。このCDで登川誠仁は藤田のいう“ワールドクラス”の歌者から抜け落ちたというのが私を含め回りの感想。これは沖縄の島うたファンからするととても残念な事だ。藤田正という音楽プロデューサーはひょっとして沖縄音楽が嫌いではなかろうか。(文中敬称略)

沖縄芸能新聞「ばん」創刊号 〜ごぉぐち撩乱 つかさの部屋〜 より

Vol.9 竹中労の顕彰碑建立

竹中労が、若者の間で今静かなブームになっているという。背中に大きな刺青を背負い、芸能レポーターからアナーキスト。映画評論から宗教解説。筆者自身、高校の頃「エライ人を斬る」や「琉球共和国」と出会い、当時の県知事・屋良朝苗をコキおろし、琉球断固独立すべしと、煽られ、雷にでも撃たれたようなショックを受けたことを今でも覚えている。
 マルチクリエーターとして活躍した型破りなジャーナリスト・竹中労の仕事の中で、沖縄音楽に関するルポルタージュは沖縄にも本土にも一つのエポックを画したことには間違いない。
1969年に沖縄を始めて訪れて以来、彼ほど沖縄音楽の独自性と地域性を強調した人はいなかったし、彼ほどその取り巻く状況に警鐘を鳴らした人もいなかった。
 「ジャパナイズの毒流はウチナーンチュの心を“本土並み”に荒廃させていく」 (琉歌幻視行)
 1973年から75年までの短い間に、渋谷ジャンジャンを皮切りに、何度となく歌会を主催。74年、75年と3度の琉球フェスティバルの開催。その間36枚に及ぶメジャーからのレコード製作。このように十全といってよい質と量で沖縄音楽を世に問えたことは、沖縄側からしてもまさしく奇跡的なできごとであった。それこそが、島うた=沖縄民謡が始めてきちんとしたかたちで紹介された期間であった。
 その頃、沖縄においては復帰から海洋博、ナナサンマル(交通方法変更)と、まさしく“本土並み”へと時代は流れていた。そして皮肉なことに、沖縄のなかで、沖縄音楽が一番人気のあった時代でもあった。レコード生産を各レーベルが競い合い、民謡クラブは雨後の竹の子のように増えた。そんな勢いのある火に油を注ぐかのように、竹中の情熱とエネルギーは嘉手苅林昌をはじめとする島うたの巨人達と本土への逆上陸を試みた。それがちゃんと認識されなっかたにしろ、十分その基礎になり得たことは事実だ。竹中労の情熱に沖縄の歌者はどれほど励まされ、勇気づけられたことだろう。その結果としての借財と雑言はツケにしてはあまりにも大きすぎなかったのではなかろうか。本人にとっては。
 しかし、島うたはウチナーンチュ自身が誇りを持って語るべき音楽であるということを再認識できたのである。少なくとも沖縄の歌者には。

沖縄芸能新聞「ばん」創刊準備号〜ごぉぐち撩乱 つかさの部屋〜より