第3回 歌碑巡り

 例えば三線の習得において、島唄や古典音楽のその歌(琉歌)の意味を確かめ理会(理解)することが大切であるということは言うまでもない。ましてやその歌の発祥地や、関係する土地へ出かけ、そこの景色に触れ、空気を感じることができれるとすればまさしく深い意味で“理”に出会えるというもの。

 というわけで年に一度の遠足「小浜司と行く歌碑巡りツアー」が今年も企画され、総勢五十人で大型バスに乗り込んだのは、去る二月四日。今回で四度目ということで、一行はヤンバルを目指した。名護から国頭へと南北東西を桜舞い散るなか(残念ながら舞ってなかったが)歌碑を求めて走り、歌碑の前にて呼吸し、三線鳴らし歌い、シャッターを切った。主な歌碑はというと、白い煙と黒い煙の碑、名護浦の深さ…の碑、大兼久節、奥間の国頭サバクイ、与那節、辺野喜節、謝敷節、安波節など。

 初っ端から名護城の階段を登らせてとのブーイングをよそに、七分咲きの桜は我々を「白い煙と黒い煙」の碑へと導いた。この記念碑は戦前、沖縄師範学校教諭として赴任して九年間教鞭をとった、稲垣国三郎(一八八六~一九六七)が本土へ戻り沖縄を回顧して著した随筆集「琉球小話」(一九三六刊)の一節、白い煙と黒い煙に由来している。当時、二万もの沖縄の若者が紡績の女工などの仕事を求めて本土へと流れた。那覇まで見送りにいけない家族のものが、小高い丘の上から燃えにくい松の葉を燃やした白い煙で海の上を走る船から立ち上る黒い煙へ、自分の身内へ、と合図を送る。その光景に感動した稲垣はエッセーをしたため、全国の教科書に載った。後の名曲「別れの煙」(知名定繁作詞作曲)の誕生の伏線もそこらへんに、ありゃ、紙数が尽きた。

2007年2月13日 琉球新報夕刊「南風」掲載より

第2回 核シェルター

 二十年前の今ごろ、私は中国大陸にいた。正確にはもう一人連れが居たような連れられていたような‥。マイナス十度の北京はせわしく、公務員たちがだだっ広い道を肩をすぼめて急ぎ足で行き交っていた。天気も吹雪いて、万里の長城へも行けず、その地を後にすることに。

北京中央駅にてさあ何処行こうかと思案していると、チケット買いませんかと声を掛けられる。「どこ?」「ハルビン」交渉成立。超格安で入手したとはいえたどり着いたは極寒の地・満州はハルピン、鼻水がみるみる凍るほど寒い。

 ハルビン駅中央口にてさあどうしようかと震えながら思案していると、宿を探してるのか、と中年の男に声を掛けられる。「安い?」「でーじ安い」交渉成立。自転車タクシーに乗せられ、氷の町を三十分余りも移動して着いたと言われたところは、一面雪の平原。騙されたか、と身構えると、実際我々を案内した中年の男はどう見ても人を騙す体格ではないし、カンフーの達人とも思えなかった。ニヤニヤ笑ってここだ、と言う。確かに目の前にはコンクリートのでかい柱が立っていた。

 大きな取っ手を引き寄せると幅三十センチ以上もあるドアが開かれた。急なラセン階段をおどおどと降りたのは何も寒かったばかりではなかった。この施設が核シェルターであることは一目で理解できる。どうやらその一部を庶民の宿として利用しているようだ。その男がフロントに一通りの説明をして、身分証明書の提示を求められ、日本のパスポートを見た彼ら全員が驚いて叫んだ。「外国人だったのか?」どうやら少数民族と思われたらしい。外国人は決して泊まれないというが、その男の説得で何とか宿を確保することができた。

 核シェルター宿は今でも営っているのだろうか?

2007年1月30日 琉球新報夕刊「南風」掲載より